なぜ「脱原発」が票にならなかったのか

天木直人

今度の総選挙を振り返る様々な解説記事のなかに「脱原発は票にならなかった」というのがある。
そしてこれは何故憲法9条が票にならないのかという護憲政党支持者たちの毎度の疑問につながる深刻な問題である。
それに対する私の答えはこうだ。
国民は脱原発に反対しているわけではない。それどころか脱原発を願う国民は多いはずだ。
それなのに何故脱原発を声高に訴える政党や政治家に支持が集まらないのか。
それは彼らにそれが実現できない事を国民は知っているからだ。
少しでもその可能性があれば脱原発を願う国民の投票は、高揚感を持って雪崩をうって彼らに向っただろう。
なぜ国民は彼らにそれができないと思っているのか。
それは政治の現実を知っているからだ。
権力に影響を及ぼす事の出来ない政党は所詮批判政党にとどまる。
批判政党には権力の監視役は果すことは出来ても決して政策に影響を与えるところまではいかない。
ここで私が「権力に影響を及ぼす事のできない政党」と書いたところに注目してもらいたい。
「権力に影響を及ぼす」のは何も政権を取ったり、連立政権の一角を占めることだけに限らない。
万年野党であっても影響力が行使できるほどの一定の議席数を持てば政権政党に迫ることはできる。
しかし脱原発を唱える政党はもはやその影響力さえないほど非力になっていたのだ。
だからそのような政党に期待をしても無駄だという無力感を一般国民は抱くのだ。
正しいことなら誰でも言える。
しかしそれを実現する力もないのに言い続けるだけでは国民は動かないのである。
なぜ正しい事を言い続ける政党がいつまでたっても国民の心をつかめないのか。
それは彼らが本気で、つまり死に物狂いでその政策を実現しようとしていないからだ。
脱原発といい、憲法9条といい、それを主張する者が偉いのではない。
脱原発憲法9条そのものが偉いのだ。
脱原発や護憲を訴える者たちがこの事実に気づくなら脱原発憲法9条の前にひざまづいて、どんなに気に食わない連中であっても、結束出来ないはずはない。
しかしそこまでの必死さはない。それを国民はとっくに見抜いているのだ。
それどころか皆が、「それを唱えるのは自分だ」と競い合う。
そこまで酷くなくても誰も自らが犠牲になって皆を統率していこうという労力をとらない。
有識者のほとんどは、政治には関与したくない、特定の政党の色に染まりたくないと逃げる。
これを要するに大衆のエネルギーが結集できる政党、指導者が見つからないのである。
そのジレンマは今後も延々と続くだろう。
最悪の状況になってやっと結束しても遅いのである。
悲惨な状況になってから蜂起しても遅いのである。
どうすればいいのか。
私はそれを私が目指すインターネット政党構想に期待したい。
手柄を取る者も、犠牲を払う者も、存在しない。その政治活動にカネも組織も一切要らない。
無印の国民の声をそのまま政治にぶつける。反映させる。
そういう政党を目指すということだ。
知恵と情熱を皆が持ち寄ればそれは必ず出来る(了)。