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独りファシズム

世界を知るという行為は、狭隘な思惟に耽溺する怠惰、あるいは浅薄な陰謀論に傾斜する蒙昧と相関であり、ともすれば独善や退行の危うさを伴います。そもそも概念や語彙、理解や知識の範疇を超えて思考などできないのですから、認識が事実であるか否か、という証明基準はデカルトの理説どおり数学的事実以外にありません。

五感はあまりに不誠実であり、記憶すらも捏造されるのですから、数字という言語のみが事実をあばき、それ以外は蓋然(確率)性のグラデーションを帯びた仮説に過ぎません。ユダヤ陰謀論地震兵器、原発無謬、それらの概念(Ockham's razor)において複雑な事象は単純化され、知的負荷は軽減されますが、モノクロームな世界観と代償に、自己懐疑や別解模索という思考性は逸失されることとなります。つまり精神の死です。

現象の背後には無数のファクターがあり、結果は構成要素間のバランスで決定づけられ、全ては無数の因果律つまりinteraction(相互依存)の所産です。あらためて知的であるということは知識の多寡ではなく、あらゆる可能性を勘定に入れる思考の柔軟性であり、可塑性という脳の物理的機能であり、自説すら疑うという度量であり、他者の痛みへの共感能力であるのだと思います。

悲しみや苦しみという人間感情を伴わない言説は空虚なのだし、生命や人権を粗暴に扱う社会論理はファシズムに変遷するのだし、思考の放棄は崩壊と従属に収斂します。

近代において行政府による自国民の殺戮は累計1億人を突破しています。ジェノサイドは国家間の大規模戦よりむしろ諸々の体制というイデオロギーから生起するのであり、社会は内在本質として暴力衝動を孕んでいるといえるでしょう。換言するならば既得権益は国民の健康、財産、生命より優先されるのであり、暴力行為の合法性、あるいは暴力集団としての絶対性こそが国家本質であるのかもしれません。

さらに敷衍すれば、国家本質とは経済本質であり、経済本質とは資本本質であり、資本本質とは投資本質に他なりません。物流、ガレキ、食品を媒介とする放射線の拡散も投資集団と為政集団のコンセンサスであり、構造的暴力であり、つまりは資本運動のダイナミズムです。穀物メジャーは食料市場寡占を企み、医療カルテルはメディカル市場創出を目論んでいるのですが、野心の究極が金融市場にあることは語るまでもありません。

汚染の進捗にともない株式市場の脆弱性は連動して加速され、外国人投資家の凄まじい売りにより記録的な暴落に陥るでしょう。株式は底値に達した時点で一挙に買い戻され、莫大な売却益が確定された後、さらに主要企業の支配権が絶対化されるということです。このスキームによって2003年東証市場は大暴落し、株式を制圧した外資は労働者賃金を経常利益に付け替え、以来200%増の配当金を連綿と手中に収めています。

世界恐慌のトリガーがNY市場の大暴落であったことはつとに知られていますが、通貨供給が前年比62%も増強され投機マネーとして還流していたことは語られることもありません。つまり1929年のNY市場暴落(世界恐慌)、1990年の東証市場暴落(バブル崩壊)、1997年のアジア通貨危機、2008年のサブプライムショック、全てが同一資本グループによって企図され、経済混乱から派生するあらゆる飢餓も圧政も貧困も紛争も緻密なプロットに従い進捗しているわけです。

社会現象というChaos(混沌)の背後には資本というCosmos(秩序)があり、世界は欲望というIdea(原型)を永劫に反映し続けています。