原発事故被害者訴訟がこの国の権力構造を変えるかもしれない

天木直人

閉塞した政治状況の中で大きなニュースが飛び込んできた。ついに原発被害者が国と東電を相手に立ち上がったのだ。
きのう2月8日の東京新聞が一面トップでスクープ報道し、そしてきょう2月9日の各紙が一斉に報じた。
私はこの時を待っていた。
この集団訴訟がすべての原発事故被害者のうねりに発展し、この国の原発政策を変え、そしてこの国の支配体制を変えるようになることを私は願う。
私は福島原発事故が起きて間もない頃にあらゆる機会をとらえて書いた。福島原発事故の被害者は何を要求しても許される。原発事故は単なる天災ではない。人災だ。そして放射線被曝という最も非人道的な被害を何の責任もないのに余儀なくさせられた。福島原発事故の被害者は国や東電にどんな要求をしても許される。国や東電は彼らに対してどんな要求にも応えなければならない。原発事故の被害を免れた大多数の幸運な日本国民は、被害にあった同胞に対して、あらゆる支援を惜しまないはずだ、と。
そう主張する事によって、私は今度の原発事故がきっかけとなって日本のこれまでの権力構造が変わる事を期待したのだ。
いや変わらなければならない。それこそが原発事故という未曾有の不幸を経験した日本のせめてもの救いになる、そう私は書いた。
残念ながらその後の二年間は無残なものであった。 何一つ変わらなかったばかりか、アンシャンレジームの見事な復活だ。
再び原発維持勢力が復活し、原発被害者の救済は不十分なまま放置されたままだ。権力の転換どころか権力による棄民政策が行なわれているごとくだ。いったい日本国民はどこまで権力に従順なのだろうか。
そう失望していた矢先にこの集団訴訟である。
繰り返して言う。
この訴訟が原発事故の被害を受けた何万人単位の数に広がっていけば東電はつぶれ、この国の権力者は責任を取らされる。その時こそこの国に本物の民主主義が芽生える時だ。
戦争を自らの手で裁けなかった日本国民は、それから67年たってはじめて主役になれるのだ。
戦争責任を自らの手で裁けなかった日本国民は、今度こそ権力者の責任を裁かなければならない。 東京裁判を再び繰り返してはいけない。メディアはそれを国民に訴えなければいけない・・・